土井脇 仁美 [広島ネイバーズ]
宮崎県出身、広島県呉市在住。二児の母。作業療法士として身に付いた「どうしたらその人の暮らしがより良くなっていくか」という視点を活かすため、呉市のタウン情報誌を制作する会社で子育てに関わる情報発信の仕事をしつつ、自身の住む地域の自治会の中で子育て広場を運営している。土井脇さんが今取り組んでいることのその先にどのような未来を描いているのか、語っていただきました。
オープンキャンパスで見つけたやりたいこと
私は小さい頃からおばあちゃん子で、両親と父方の祖母と、2 人の姉の 6 人家族でした。お姉ちゃんと歳が離れているので、おばあちゃんと接している時間は私が一番長かったです。母方のおばあちゃんは、母の兄と 2 人暮らしをしていて、自宅から車で 5 分のところに住んでいたので、幼い頃の私は「なんでみんなで暮らせないんだろう?」と疑問に思っていました。私が母によく「みんなで一緒に暮らせたら良いのにね」と話していたことが母にとって印象的だったそうです。
おばあちゃんの身体がだんだん動かなくなってきた高校生の頃から、まちづくりのことを考えるようになりました。例えば、自宅から接骨院や病院、スーパーといったよく行く場所を回遊できるような循環バスが走っていたら、身体が不自由になっても出歩く機会が増えてもっといきいき過ごせるのかな、などと何気なく考えることが多くなりました。まちづくりのことに関心はありましたが、普通科の高校生活では将来どのような進路を目指せば良いのか分からなかった時期が続きました。
高校 2 年生の時、県内の大学のオープンキャンパスへ行って作業療法学科の存在を知りました。作業療法学科の先生から「病気や高齢などの理由で思うように動けなくなった時どうやったら自分らしく暮らせるようになるのか、その人らしく暮らすためにはどのようなサポートができるのかを考えることが作業療法の基本なんだよ。」という話を聞いた時「それって私のやりたいことだ!」と自覚したんです。
大学の実習で見つけたやりがい
作業療法学科在学中の転機は、大学 3 年の時に園芸療法を専門とする先生のゼミに入ったこと。その先生が老人保健施設と連携して利用者さんに園芸療法を提供するプロジェクトを立ち上げる時にゼミに配属されたので、最初の企画から関わることになりました。「老人保健施設がただ高齢者を預かる場ではなく、利用者さんがいきいき過ごせる場所にしたい」という想いのある施設の経営者の協力もあり、この企画が発展していくことになったんです。実際に老人保健施設に行って気難しいおばあちゃんに接した時、おばあちゃんに対する声かけや誘導の仕方で反応が違うことを目の当たりにし、だんだん笑顔が見られるようになったり、変化が目に見えて分かるようになったことがとても楽しかったんです。「どうしたらこの人が少しでも楽しいと思ってもらえるのかな?」と考えながら実践できたことが、作業療法士の仕事に魅力を感じたきっかけになりました。大学の授業は座学も多いですが、利用者さんと直接触れ合う実習での経験が私の中では衝撃的で、実際に人と関わることで「やっぱりいいな、この仕事って!」と思えたんです。
大学 4 年になってから、大分県の湯布院にある病院へ実習に行きました。リハビリテーションは治療優先の急性期、通常の生活に戻るためのリハビリを集中的に行う回復期、自宅や施設への入所をして通常の生活をする生活期(維持期)の 3 つに分かれているのですが、その中の回復期を担う病院を実習先として選びました。その病院は「患者さんのために」がモットーで、患者さん一人ひとりに必要なことをチームで連携して考えて接する病院だったので、実習生ながら担当の利用者さんに対して自分で考えたことを実践させてもらえたんです。
実習生として担当した方の中で印象的だったのは、最初は全く心を開いてくれなかった嫌味なおばあちゃん。話しかけても知らん顔をされたりしていました。そのおばあちゃんはお化粧や美容に気を遣っている人で、脳梗塞を起こしたため片麻痺になり自分で思うように身だしなみを整えられなくなったけど、でも綺麗にはしていたいというタイプでした。おばあちゃんが自分でお化粧を吸いつけたり、髪の毛をとかしたりなど身だしなみを整えやすいように、ごちゃごちゃになっていたくしなどの道具を使いやすいように籠にセットし直したりして、どうしたら自分で身支度ができるかを一緒に考えました。また、足に付ける装具の履き方を練習する時に素足で床に立つことが嫌なんじゃないかと思い、おばあちゃん専用のマットを作って汚れないようにベッド周りの環境を整えたんです。そしたらこれをきっかけにものすごく心を開いてくれて関係性が良くなり、おばあちゃんのやる気も出てきて一緒にリハビリに行ってくれるようにもなりました。考えて工夫をしてみたり、一緒にどう変わりたいかを見つけることがとても楽しく、やりがいを感じました。
大学卒業後は、実習でお世話になった病院に 3 年間勤めました。夫とは大学時代に知り合い、夫も大分県で働いていましたが、結婚することになって夫の実家のある広島県に引っ越すために 2 人とも離職し、夫の新たな職場となる廿日市市へ引っ越しました。私自身は、回復期よりも人生の中で長い生活期(維持期)に、実際の暮らしの中でその人のことを考えて「ただ生きている」のではなく「その人らしく生きていくためにはどうしていったら良いか」を考えたかったので、維持期の患者さん専門の病院を探して就職しました。その病院で 1 年半働いた後に妊娠・出産・復職を経験したんですが、夫の実家の近くで家を建てることが決まったので離職し、呉市に引っ越すことになったんです。
想像以上に辛かった第一子の産後
私の性格上、元々1つのことに集中して打ち込むタイプだったので、結婚して子どもが生まれても仕事をこのまま突き詰めるのも面白いと思っていました。その反面、子育てと両立をしなくてはいけない環境になれば仕事に集中できなくなるんじゃないかという不安もありました。いざ子どもが生まれると、「幼い子どもと一緒に過ごす時間は少ないから、子どもが小さいうちは自分でちゃんと見たい。家のことも疎かにしたくないし仕事も手を抜きたくないけど、性格的に両立できない。」という気持ちで葛藤し、初めて職場で時短勤務を使わせてもらうことになりました。仕事で子どもと一緒にいられない分、仕事が休みの日は子どもと向き合わなきゃと思って、仕事が平日休みの日には保育園を休ませて子どもを見たり、時短勤務の後に子どもを早く迎えに行くなどして仕事と子育てを両立しようとしました。でも、忙しい時はイライラして子どもに強めに言ってしまったり、疲れて家にこもってしまうこともあり、家で子どもをちゃんと見れているのかなと悩みながら過ごしていた時期もありました。呉市への引っ越しを機に「子どもが小さいうちはなるべく自分で見たいから、しばらく夫一馬力の時期が続いても暮らせるようにしたい」という想いを優先させ、自宅で子どもを見るという選択をしました。
1 人目を出産する前までは出産の場面のことしか考えていなくて、産後の子育てが大変だとは想像もしていませんでした。「赤ちゃんを泣かせてはいけない、ちゃんと子育てしなきゃ」という思いが強く、里帰り出産の後から涙が止まらなくなるなどメンタルが不安定になってしまいました。夫が仕事にでかけた後の子どもとの時間は「私がこの子の命を守らないといけない」と気負ってしまいしんどくなる一方でした。自分のことを話す相手もいないし、1 人で子どもを見ないといけない責任感でなかなか寝られなくなったので、落ち着くまで宮崎の実家に戻ることになったんです。この時期に子育てってこんなに大変なんだ、人とのつながりってこんなに大切なんだと実感しました。
自分が子育ての辛さを経験したことで、作業療法士として病院や施設で見ている人以外にも普段の暮らしの中で困っている人がいたり、もっとこんな風にしたら暮らしが変わるのになと思う人ってたくさんいるんだと思うきっかけになりました。「もっとこんなことがあったら子育てしやすいのにな」「こんな場があったら良いのにな、暮らしに合わせて考えられたらいいな」と考えるようにもなっていきました。作業療法の考え方を活かした地域づくりができないかなと思った時、仕事は離職していて知り合いもいなかったので、地域の中で身近な人と知り合える場であったり、地域の人が子どもを知っているという関係性をつくるために自分の住む地域で子育て広場を始めました。それと同時期に Firste の存在を知り代表の言葉に共感したことがきっかけで、Firste の取り組みにも参加することを決めました。
Firste では座談会やイベント企画など多様なことを仲間と一緒に行いましたが、取り組みに参加して良かったと思う理由は 2 つ。1 つ目は、子どもをきっかけに出会う園や学校でのママ友とは違う、多様な人に出会えたことです。離職して新しい土地へ引っ越し、自分の居場所が家庭だけになったことはとても辛かったです。子どもの幼稚園の保護者との付き合いも自分を出せませんでした。Firste の取り組みを通して様々な価値観や考え方の人と出会うことって大切なんだなと感じました。私自身だけでなく、自分の子どもにもいろんなタイプの人に知り合ってほしいし、いろんなことに興味を持っている人を知ってもらいたいという気持ちが芽生えました。
2 つ目は、普段「こうなったら良いのにな」と頭でしか考えていなかった私が「私みたいな普通の人でも、行動に起こせば何かできることがあるんだ」と気付けたこと。ただ理想像を思い描いているだけではなくて、理想に向かって少しでも動けばできるんだなと思える体験ができました。「それなら、子育てをする中で必要な地域情報が欲しい、自分の住む地域でつながりが欲しいと思っているんだったらやってみればいいんだ」と。今は作業療法士の肩書きで地域づくりをしていくことは難しいので、自分の身近な自治会の中で場作りをしたり、Firste のプロジェクトをきっかけに就職することになった呉市のタウン誌を発行する会社を経由することで子育て世代への情報発信や子育て環境づくりに関わるなど、それぞれの場所で棲み分けながら、作業療法士的な視点を持ってやりたいことに取り組んでいます。やりたいことを実現するためにはどうすればいいのかを考えられるようになったことで、これからもいろんなことをやってみようと思えるようになったのは大きな一歩だと思います。
健康にその人らしく暮らせる未来を目指して
地域づくりにも興味はありますが、元々働いていた病院や施設、自宅にいる高齢の方の暮らしの中に、子育て世代など関係なくいろんな世代をミックスすることができないかという想いがあります。私のおばあちゃんは最期グループホームで亡くなったんですが、自宅で家族だけで認知症のおばあちゃんをサポートすることは難しいと実感しました。おばあちゃんの最期の暮らし方を見ていて、最期までもっとおばあちゃんらしく暮らせる方法はなかったのかなと疑問に思ったんです。私のできる範囲でサポートをしたいと、お母さんの代わりに 1 か月実家に戻って介助などをしましたが、それだけでは不十分だと思いました。その人自身がその時その時をこういう風に暮らしたい、例えば「今は子育ての時間をメインにしたいな。でも自分の時間も大切にしたいな。」とか、「年齢を重ねても自分らしく楽しみを見つけながら生きたいな。」というような想いを引き出したり、想いをくみ取って形にするために何か一緒に考えて動くことができたらいいなと思うんです。
将来はグループホームやデイサービス等で週に 1 度だけでも勤務させてもらい、どうすれば高齢者を施設に預けっぱなしにしたり、施設の中で決められた時間やプログラムに沿って過ごすような暮らしではなく、少しでもその人らしく楽しく暮らせるような場所になるのかを考えられたらいいなと思っています。その体験が実になれば、そこからつながっていろんな世代の人が交流できる場所を作ることができるかもしれません。それぞれの場所で自分にできることを増やしていって、小さい子どもから年配の方までその人らしく過ごせるような場所や機会を一緒に考えて作っていけたらいいなと思います。まずは子育て世代を中心に、自治会やタウン誌の仕事を通して子育て世代が知りたい情報を届けることに専念して、数年後は施設などで働きたいなと考えています。
私が今暮らす場所は両親が住む宮崎県から離れているので、自分の親をちゃんと見られていない申し訳なさを感じているのも、将来実現したいと思うことの動機になっています。今自分が慣れ親しんだ場所で地域の人に協力してもらったり頼り合って過ごすことができれば、高齢になっても施設に入らずに過ごせる可能性は高くなるし、健康に過ごせる時間が長くなればなるほどその人らしく生きていけるので、家族以外の地域の人とつながるネットワークをどのように作っていくかを実践しながら考えていきたいです。実家の両親の暮らしを直接変えることはできないですが、今いる地域で事例ができれば、地元でも自分の親が親らしく最期まで生きられる環境を作れるかもしれないと思っているので、少しでも両親のためにできることがないか探りながら経験をつなげていこうと思います。