光井 祐子 [広島ネイバーズ 発起人]
岐阜県出身、広島県廿日市市在住。三児の母。第一子出産後に離職と転居をし、誰も知らない場所での子育てを経験。孤独な育児と、離職したことによる将来への不安がきっかけとなり、任意団体Firsteを立ち上げる。集まってきた仲間と様々な取り組みにチャレンジする代表が目指したい未来とは?地域社会の未来の在り方に対する問題を提起する。
何度も叶えられず終わった夢
岐阜県の田舎育ちの私は、1学年1クラスしかない全校生徒120人の小学校に通っていました。1人だけみんなと違う幼稚園から入学したこともあり、1年生の頃からいじめを受けていました。小学校6年間、度々受けていたいじめに耐えられたのは、同居していた祖父母のおかげでした。両親は共働きだったので、放課後は祖母と一緒に散歩やボール投げをしたり、休みの日には電車に乗って大きな神社へお参りに行ったり、自転車でショッピングセンターへ行くのが楽しかったと今でも鮮明に記憶しています。ほとんど毎日祖母と一緒にお風呂に入っていた時、祖母は私に「かわいいねぇ。あなたは神様の子」と頭を撫でてくれ、この言葉で何とか自己肯定感を保つことができていたと思います。
小学生の卒業文集で将来の夢を書かされたことが鮮明に記憶として残っていますが、文集に残せるような夢なんてないと割り切り、心にもない職業をテキトーに書き収めました。中学生になり、どの部活に入部しようかと体験して回った時、知り合いの先輩から焼き肉屋にたくさん連れて行ってもらえるという理由だけでソフトボール部に入部しました。グローブも握ったことのない初心者でしたが、ソフトボール部の監督の人柄に恵まれめきめきと上達し、三塁手から正捕手になる頃には岐阜県の選抜選手に選ばれるほどソフトボールの魅力に取りつかれていました。正捕手の経験は、投手を安心して投げさせることに配慮したり、相手チームの打者の特徴やチームみんなのメンタル状態などを気にしながらリーダーシップを取ることを学びました。ソフトボールにやりがいを感じ継続できたことで、やっと自分の中で得意だと胸を張れるものができたように思います。
中体連大会が終わって引退した後、ソフトボールの監督から「中学の教員を目指さないか」と勧められ、頭の片隅に「教員になってソフトボールを教えたい」という夢を持ちました。高校でもソフトボールを続けたいという想いは身体の不調により叶わず、高校進学後はソフトボール以上に打ち込めることが見つからず、勉強も部活も遊びも全て中途半端になりもぬけの殻のように過ごしていました。高校3年の進路選択の時期に、知り合いがうつ病になったことがきっかけで、自宅から通える心理学科のある大学を受験しました。勉強にやりがいを見出せずに大学進学をしましたが「教員」と「カウンセラー」という夢を頭の片隅に置きながら、大学生前半はアルバイトに明け暮れていました。大学生後半には教員免許を取得するために母校の中学での教育実習へ行き、授業を教えることよりもソフトボール部の顧問をすることにやりがいを見出していました。大学3年の頃には今まで興味のあった臨床心理学の道ではなく、実験・社会心理学のゼミを選び、ゼミの先生の影響で「研究職に就きたい」と思うようになりました。
大学4年の時、ゼミの先生が広島の大学へ招聘されたことを機に、私も広島の大学院を受験しました。受験勉強というものに初めて本気で取り組み、英語の長文読解ができるようになったことは自分でも驚きでした。両親は勉強が苦手だった私が大学院に受かるはずがない、受験するだけしてみたら?と本気にはしていませんでしたが、合格通知が届いた日には家族全員が動揺していました。大学院から故郷を離れ、広島の地で一人暮らしを始めました。大学院でのハードな研究生活とは裏腹に、大学院の必修科目で他領域の研究分野の学生と一緒に現代の社会課題を解決する方法を検討するという授業があり、研究ではない分野に少しずつ関心が膨らんでいきました。この必修科目の影響で「研究という間接的な手段ではなく直接人に喜ばれる仕事がしたい」いう気持ちが強くなり、社会を知らないまま研究を続ける不安や、親が博士課程への進学を反対したことなども重なって、修士課程修了後は介護福祉関係の企業に就職しました。
社会人になって3年で結婚し、妊娠・出産を経て離職することになったので、企業に勤めて何らかの技術や知識を獲得できたという自信をつけることはできなかったです。結局夢として想定していた「教員」「カウンセラー」「研究職」に就く努力ができなかった自分が恥ずかしく、やるせなさを感じました。企業の中で様々な部署の仕事を経験させてもらったものの、打ち込める仕事や得意だと思える仕事をずっと見出せずに離職し、自分自身に対する自信は喪失しました。ただ、『地域包括ケアシステム』という介護福祉に携わる人なら知っている用語や『地域共生社会』という目指すべき未来の在り方にはなぜか興味を惹くものがありました。
子育ての当事者になって分かったこと
子どもの頃から節目節目で考えさせられた「将来の夢」は、私の場合は結局、その時々で影響力が強かった人への憧れから始まり“何者かにならないといけない”と無理やり考えて設定したことでした。
第一子を出産して会社を退職し、夫の仕事の都合で馴染みのない場所へ引っ越し、キャリアも知り合いもゼロ、子育てをしながらどうやって過ごしていけばいいのか先が見通せない状況となり、初めて誰にも上手く伝えることのできないモヤモヤを感じました。会社にも地域にも居場所のない自分は、社会の役に立つことのできない落ちこぼれのような気にもなりました。その反面、目の前の赤ん坊には私しかいないんだという使命感もあり、出産前までには感じなかったストレスを感じるようになっていったんです。
「子どものことだけを考えて毎日同じ生活をしていると自分がダメになりそうな気がする。自分の力で何とかして打開しないと…」という気持ちになり、知り合いを増やし同じ想いの人を探すべく任意団体を立ち上げました。子育て支援センターに行って子育て支援を受けるだけではなく、赤ん坊がいても社会の役に立てることをしたり、いずれ再就業する日までに自分自身にできることを増やしたいという気持ちが増してきました。子どもはもちろん可愛いし大切にしたいけど、いつまで続くか分からない子育ての時間がキャリアブランクになることが怖かったんです。出産と転居を機に、人とのつながりも仕事も子育ても全てスタートラインに立って仕切り直すことになったので、勤める企業の中で与えられた仕事をこなしていくのではなく、何もないところから自分自身の力で何ができるのか試したいという気持ちにもなりました。
「何かやりたいけど、何ができるか分からない」という状況の中、任意団体での最初の取り組みは自分と同じ子育て中のママと子どもを集めて公園遊びやお散歩会をしたり、友達になったママの強みを活かしたイベント、大学生や年配の方々と一緒にアダプテッドスポーツと防災のイベント、赤ちゃんを連れたママがスタッフになる婚活イベントなど、興味があることを実践してみようとしました。一通り興味があることをやってみたおかげで、企業に勤めていた時は“指示待ち人間”で上司の役に立てなかったような人間でも「やりたいと思ったことを形にすることは、自分にもできるんだ」と自信を持てるようになったんです。企業勤めをしていた頃よりも、自分自身を好きになれたと思うし、自分だけにしかできないこともあるのかもしれないと自分の存在価値を認められるようになったような気がします。
出産と転居を機に離職してから「人は労働力を失った時点で社会的な価値を失い、その後は社会的にケアされる価値のない存在として位置づけられている」と無意識のうちに思っていたことに気付きました。だから「子育て支援」という言葉を聞くと「支援を受ける価値のない存在」だという潜在意識が働くのか、子育て中でも社会に役立つことを考えて実践できることを世の中に示したいという気持ちになるのかもしれません。未だにこれからの自分は何になれるのか分かりませんが、人生の後半には過去の多様な経験が線でつながるようなことを仕事にできていたらいいなと思います。
これから目指したい未来とは
現代は10年先の未来も全く予測ができない時代なので、私自身常に不安を感じながら生きていると言っても過言ではありません。「こんな未来になったら良いのにな」というのは想像もできないので、「高齢になった自分が楽しいと思えるのはどんな暮らしなんだろうか」とよく考えます。これに対する回答は十人十色だと思いますが、私は自分が信頼できる人達に頼り頼られながら一緒に過ごすこと、人から必要とされることをしてやりがいを感じられることだと思うんです。自分が歳を重ねても生きがいを持って暮らせる未来をつくるために、自分で立ち上げた団体の取り組みを通して繋がっていく人とのネットワークづくりを「広島ネイバーズ」として、小さな社会をつくる実証実験をしているという感じで日々暮らしています。だから私は、たとえこの団体の取り組みの中で上手くいかないことが起きたり、もう辞めたいなと思ったとしても、自分が高齢になった時の未来を考えると「続けていたらきっと、辞めた世界とは違うより良い未来がやってくる」と信じて細々とでも続けていくんじゃないかなと思っています。
「広島ネイバーズ」というのは、広島県内(自分が会おうと思えば会える距離感)の隣人関係を作るという意味合いでネーミングしました。現代は、自宅周辺の隣人関係を築こうと思っても何かしらの接点がない限りは隣人と仲良くなれない時代のような気がします。だから、自宅の近所に住んでいる人と助け合える隣人関係が築けなかったとしても、自分と同じような境遇の人や自分の想いに共感してくれた人同士で何かあった時に頼り合えるネットワークを作れば、私自身も私の子ども達も、私の周りにいてくれる人も安心できるセーフティネットになるのかなと。
今の私が子育てをしている現役ママということもあり、Firsteで様々なイベントを企画する時には子育て中のママや子ども達が参加してくれるので、傍から見ると“子育て支援をしている団体”とよく言われますが、実は私自身はそう思っていません。自分の命がある限りFirsteを続けると仮定すると、私が高齢者になった時に自分の暮らしを豊かにしてくれたのが「広島ネイバーズ」のメンバー達だったと思えると良いなと考えているので“子育て世帯に特化した活動をしている”のではなく“ライフステージが変化しても、多様な人が個々の豊かさを追求できる活動をしている”と、いつか周りから思ってもらえるようになりたいですね。なんだか分かりにくくてすみません(笑)
そもそも戦後日本の産業社会では、社会的分業といって社会の中で労働する人が専門の仕事をするようになることで、社会そのものが職業別の集団に分かれていくような社会構造になりました。これに伴って、子どもの教育は学校が担当し、高齢者は介護施設にお世話になったりと、人間のライフステージを分割して捉えることが当たり前になったんだと思います。こうした縦割りの社会構造によって、子どもと高齢者がともに過ごす環境や時間が失われたり、いろんな世代の人が頼り合いながら暮らす風習が失われたんじゃないかなと思うんです。
近年その弊害を少しでも無くす取り組みとしてなのか、幼老複合施設が新設されて企業が地域貢献することが時々注目を浴びますが、企業が提供するサービスの中で世代間交流を行う機会を作っているだけなので、そのサービスの受給者以外は恩恵を受けられず、社会構造の在り方にイノベーションが起こっているように思えないのが残念なところです。かと言って、誰かが何か取り組めば社会構造がガラッと変わる訳でもなく、私自身がFirsteを通して社会を変えたいと思うことなんてもってのほかなので、少なくとも自分が立てた旗の周りに集まってくれる人には「現状より自分たちの暮らしがより良くなるように考えていこうよ」と投げかけ、子どもも大人も一緒になって主体的に考え実践していく小さな社会を「広島ネイバーズ」として創造していけたらなと思っています。
以前勤めていた高齢者介護や障害福祉に関わる企業で勉強した『地域包括ケアシステム』や『地域共生社会』の発展を願いつつも、行政サービスではできない何かを「広島ネイバーズ」メンバーのフォロワーシップで構築していけるように、信頼関係を築くことのできる公共機関や企業の方々と試行錯誤しながら、私自身が高齢になっても生きがいを持てる理想の暮らしの実現に向けてライフワークとして続けていきたいです。
この記事を読んでくださっている皆さんは、自分の未来がどのような環境であれば生涯いきいきと暮らせると思いますか?行政に作ってくださいとお願いしたり、誰かが取り組んでいることを評論家のように非難するのではなく、あなたにどんな未来が訪れたら良いと考えていますか?少しずつでも自分たちにとってより良い未来をつくりたいと思える人がいたら、私たちと一緒に考えるところから始めませんか?私は人々が孤立する社会ではなく認め合える社会を、人同士で潰し合うのではなく高め合える社会になることが幸せだと思うんですが、皆さんはどのように思いますか?…といろんな人に問いかけてみたいです。